ロッツオという悪役は必要だったのか

トイストーリー3において、私の心をどうしようもなくかき乱したにくいあんちくしょう、それがロッツオです。
だいぶツイッターで大暴れ(連投ツイートなど)したのですが、改めていくらかまとめておこうと思います。


映画全編にわたっての大量のネタバレがあります。
特に3は詳細なストーリーラインを扱っています。

 

トイストーリー3に彼という悪役は必要だったでしょうか?
私はトイスト3に対して否定的な立場をとります。
確かに置かれた状況とラストは感動するけど、その道筋がどうにもついていけない。
そういう話はちょっとなーって方はスルーしていただけると、私はとてもありがたいです。



トイストーリー1

まず、トイストーリー。「旧来なじみのメンツの中に、主人たる子どもの興味関心を独占しうる新しいおもちゃがやってきたら?」というお話です。
そこで出てくる障害や悪役(のように描かれる)のは、
・もともとリーダー役であった、子どものパートナーだったウッディ
・おもちゃを改造して遊ぶシド
・シドによって改造された強面のおもちゃたち
でも、最も物語の元凶であり悪役たるのはウッディその人でしょう。
主人公でもありますから、彼の悪役たる振る舞いは物語の最中に変わっていきます。
シドはおもちゃから見るとこわ~い存在ですが、彼は彼なりにおもちゃで遊んでいるのであって、決して悪ではありません。
彼のおもちゃたちはそれこそ見かけのみです。
ウッディは自分の弱さを認め、バズを受け入れ、大団円です。

トイストーリー2

今度は「捨てられたおもちゃと、そもそも選ばれなかったおもちゃ」のお話です。
いつかおもちゃから子どもは卒業します。ジェシーはその悲しみから、「いくら愛されても、いつか捨てられる。もう二度と捨てられたくない」そんな思いを抱え、またプロスペクターはそもそもセール品にされても子どもの誰からも選ばれなかったという悲しみを抱えています。
だから二人は、博物館に飾られて、ひとびとの思い出に寄り添い、そういう愛の享受と安穏を望みます。
でも、ウッディは一人の子どもに寄り添い、遊び、抱きしめられる喜びを今なお知っています。
ジェシーはウッディと一緒に、プロスペクターは一人の女児のもとへ。
これさあ、プロスペクターだってつれていってやりゃあいいじゃねえかと思いましたがダメなの?とこの時点でウウン?という気持ちは私の中で少し風来していたのですが、プロスペクターも女児の元で「抱きしめられる喜び」を知ることができるだろうという終わりなんだ、と納得させていました。
子どもがおもちゃを抱きしめて、おもちゃが幸せになれる。そういう魔法がある。
私はそう信じたのです。

トイストーリー3

で、トイストーリー3。「子どもの成長による、おもちゃとのお別れ」のお話。
アンディは大学に進むのと同時に家を離れることとなります。そこで、今まで残しておいたおもちゃも屋根裏へ、昔から一緒のウッディだけは引っ越し先へ連れて行こうとします。
でもアンディは思い直して、近所の、まだまだおもちゃでたくさん遊びたい盛りの女の子に、自分の思い出と一緒におもちゃを託すことにするのです。

これがストーリーです。
今回は1や2とは違い、おもちゃではなく、アンディが主人公の、アンディの物語です。
私はこのストーリーラインに関しては非常に感動しましたし、とても納得しています。

主線ストーリーから外れて

問題は、それ以外のところです。
この結論に至るまでにおもちゃたちがドタバタ劇をするわけです。
その物語は、アンディは一切出てこず、主要たるストーリーラインとは外れていると考えます。
おもちゃたちは、「いつかアンディの子どもと遊べるかも」という希望を胸に、屋根裏に引っ込むことをよしとしていました。
しかしながらひょんなことから捨てられると思った屋根裏行きの面々は、捨てられるくらいなら、捨てられない、別の子どものところへ――保育園へ行くことにします。
けれど保育園はすでにいるおもちゃたちで身分制度が敷かれており、その底辺にいるおもちゃたちは、おもちゃの扱い方がまだわからない幼児たちにぶつけたり、口の中にいれられたりして遊ばれていたのです。
みんなの誤解を解くべく駆けつけたウッディは、そこからみんなを助けようとします。
いろいろはしょりましたが、そんな物語です。

ンン?と戸惑った点

ここで不満がまず一つ。
「幼児たちみたいなおもちゃの遊び方はおもちゃにとって不幸せである」
そうでしょうか。
でもまあ、対象年齢というものがあります。
幼児の遊び方では、おもちゃはすぐ疲弊するでしょう。保育園にはそれを十分に補充するだけの力がない(これは想像にたやすいです)のでしょう。
だから幼児向けのおもちゃじゃないおもちゃが、彼らに与えられている。それをおもちゃたちは「こうやって遊ぶのはちょっとな~困ったな~」と思っている。
オーケー納得しました。

では、つぎ。
3の悪役は、くまのぬいぐるみ、ロッツオです。
ロッツオこそがこの保育園のおもちゃたちを取り仕切り、身分制度を敷いています。
…だいぶ周りのおもちゃもノリノリなので、一度機能してしまった身分制度が彼ひとり抜けたところでそんなに良い方向に傾くとは思えませんでしたが、まあそこはさておこう。

でも実はロッツオには悲しい思い出があったのです。
彼は昔、すごくデイジーという子どもに愛されていました。まるでアンディとウッディのように仲良しだったのです。でもある日、車で遊びに行った野原でデイジーは寝てしまい、両親が気づかずロッツオたちデイジーのおもちゃを忘れて帰ってしまったのです。ロッツオたちが必死でぼろぼろになりながら戻ったころには、デイジーのそばには別のおもちゃがいました…。
そこから彼は歪んでしまったのだといいます。

ロッツオだけの問題か

ロッツオは「信じていたのに、裏切られた」と思ったことでしょう。
それはよく、わかる。
彼はそのまま、結局、悪役を貫いていきます。

私が憤るのは、次の二点です。
・どの保育園の子どもが彼を抱きしめても彼は癒されなかった
 (2で私が感じた子どもの抱きしめる魔法は彼には「絶対に」効かないと示された)
・デイジーのようなおもちゃとの別れを経験した子ども(大人)は少なくないはず。彼らはロッツオのように恨みつらみで誰にも癒されないまま存在している可能性を示した

たとえばウッディがこの先、ロッツオのような別れをボニーとしたとき、ウッディがロッツオのようにならない理由はなんでしょう?個体差?
「そうなりえるかもしれない」。

ロッツオは最後、「なつかしいなあ。すごく好きだったよ」というゴミだし運転手のおいちゃんに拾われ、車のヘッドにつけられます。
トイストーリーは、大人とおもちゃの物語より、子どもとおもちゃの物語として描かれ続けてきました。
これはこれでいいかもしれない。でも、それを描くだけの積み重ねは少なくともトイストーリーというシリーズから私は見つけることができず、どちらかというならバッドエンドを示唆しているように見えました。

しかも、彼の物語は、本筋のアンディの物語が持つテーマとどう関わっているでしょう。
ドタバタアドベンチャーの部分に、果たして、彼という悲劇は必要だったでしょうか。

私はどうしても是と思えません。

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