よっこいしょってしても立ち上がるのが大変だったときの話
- 2018/03/10
もういいかげん、ネットだけでなく書籍でもこんなふうに立ち上がれなくなったことがある、という体験談は、あちこち見つけようとしなくても目に入るようになったように思うので、こうして残しても何になるってわけでもなく、ただ自分語りがしたくなっただけだな…と思いつつ深夜のテンションで今これを書いています。あととくにこれで立ち上がれるようになった! とかいう話は今のところ書いてません。書くこともあるかもしれない。
何やってんだお前って思ったら消す。
よっこいしょってしても立ち上がれなくなったとき、私にはこれといっておおごとな、大変なことはほとんど何もなかった。と今でも思っている。
まあ、ちょっと、しなくてもいいアクセルを長らくベタ踏みしてたなとか、ずいぶん長めに働いていたかもしれない、なんてことはあるのだけれど、とはいえ結構自分を甘やかして暮らしていた。友人も職場も割と甘やかしてくれていた。
よく二年ぐらい過ぎるとやっていること全部投げ出したくなりがちなので、怠け癖も出てるんだろうな~と思いながら、「やばい飽きたわ~やる気でないわ~」などと愚痴ったりしていた。それから、少しして、仕事中に泣き出して大丈夫かってことになった。すぐ割としょうもないことで泣き出すし、泣き始めると止まらない自分を知っているのでいやいや大丈夫だようっかりそのスイッチが入っちゃっただけだよと思っていたのですが、ヘルプにきた家族からのストップがきて、私は立ち止まることになった。
「どうしよう? どうしたらいい?」
何かあるとすぐこの言葉に逃げ込んでいた。ヘルプにきた家族が部屋を片そうとしてふと「これどうしようか」って聞いてきても、「こういうことがあるからこんな連絡した方が良いんじゃない?」と確認されても、全部すぐに逃げ込んだ。どうしよう。どうしたらいい? 私はしばらく自分で自分の面倒を見ることをやめることになった(いや…それまでも、今も、たいして自分の面倒みきれてなくてあちこち頼らせてもらっているのだけど…)。
立ち上がれなくなってからしばらくの時間の進み方はすごく不思議だった。すごく長いけど、気づいたら夕方がきている。そんな感じの記憶はかろうじてあるけど、(ありがたいことに)もう感覚として思い出すことはできないので、ちょっと悔しい、これは贅沢かつのんきなことを言っているけど。
人と会うことはやめていなかった。ここで切れたらずーっと切れてしまうのでは、などと考えて、とりすがったところもあった。「今は特に読みたくないのにSNSチェック止まらない」みたいな感じの。
会った人が実際どう感じてたかは知らないけれど、それなりにふつうっぽく振舞えたと思う。少なくともそういう自己評価だった。じゃあ、よっこいしょって立ち上がれてたんじゃん? と言われれば、まあそうかも。ただ、かわりに帰ると二日とか三日とか寝込む。
立ち上がれなくなってから、顕著に出たなと自認があるのは二点。一人で人混みにいるとなんだかすごく「うるさく」感じたことと、店員さんに話しかけられると固まってしまうようになったことだった。
「うるさく」というのは、神経がざりざりするというか、すれ違ってるだけなのに誰かといるんだって強く感じているというか、自意識過剰みたいな、そういう過敏さだった…のではないでしょうか…もはや憶測。
それから「話しかけられる」というのは、「このお洋服素敵ですよね~」とかいうレベルではなくて、「お会計〇〇円になります」とかいうレベルでこれには参った。ちょっとお菓子買いたいと思っても、その道のりにあまり人がいない時間帯に出られるのにレジでは必ずそれが待っている……! ああ~! でもどうしても食べたくなったら買いに行って四時間ぐらいボゲ~~~ってなってました。自分を甘やかすことに余念はない……といえたものかどうか……。さらに「人と会うモード」で気合いれてふつうを装ってる(つもり)のときですら、「お写真とりましょうか?」の言葉に固まって、たぶん信じられないようなものを見る目で、「いいです」とすら言えなかった。できないことが本当にこたえた。
まあ、こんなもんです。
ごはんで苦労した記憶はすっとんでるんで、たぶんそんなにしなかったんだと思います。睡眠もすっとんでるんで同様だと思われます。大したことなかったんだって言われれば、そうなんすよ~っていう。でも、それでも、よっこいしょってしても立ち上がれなかったという経験なのですよ。